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白い林檎、硝子のスープ

読書・ゲームなどの感想を書いていくです

バカテス6、ニャル子1、エア彼氏1

バカとテストと召喚獣6>

バカとテストと召喚獣 6 (ファミ通文庫)

バカとテストと召喚獣 6 (ファミ通文庫)


 1,3巻は面白い。とくに1巻は悪知恵成分が高いので面白い。2巻は単純に微妙。4巻は何をやっていたのか記憶にないくらいつまらない。5巻は合宿の話は面白かった。3.5巻はとても面白かった。
 基本的にこのシリーズは「馬鹿」ということが物語の根底にあって、それをラブコメ、ホモネタ、テスト珍回答集、秀吉、作者が美少女であること、などなどでしっかりと固めていく話なのだと思っているのだが、やはりこの作品で最も書かせないものは「馬鹿な勢い」である。とにかく勢いだけで突っ走るわりに悪知恵を働かせまくり結構姑息な手段を取りまくるのを楽しむわけで、そういうのを楽しみたいのでこの6巻は少々残念であった。ああ、思い出した4巻はヒロインに恋する女の子が襲いかかる話だそうだ思い出した。
 ラブ要素を盛り上げようとするだけだったり、ただ既存の設定に乗っかったネタ(秀吉ネタ)だけでは面白くない。召喚獣の設定を生かした戦争、戦略の上でさらに馬鹿なネタを加えるからこそ面白くなるのだ。単純に肝試しだけでは面白くならないのである。3巻がそういう意味で素晴らしいものだった。「覗き」というものを無意味に熱い戦いとして馬鹿な感じにまとめているのは非常にうまい。オチは正直ななめ上だったけどどうでもいい。ただの覗きなのにそれを召喚獣をうまく使うことで戦争に昇華しているのがすごいのであり、面白いのである。
 そういうことで、今回は既存の薔薇、百合ネタにもっていきすぎて少し微妙だったわけである。ただ、各々のネタはまあ面白かったし、坊主のメイド服挿絵つきはかなりのトラウマものである。挿絵を見たくないと思ったのは久々である。ふはは。


這いよれ! ニャル子さん

這いよれ! ニャル子さん (GA文庫)

這いよれ! ニャル子さん (GA文庫)


 単純にネタににやりとするだけでいいと思う。まあ面白かった。が、よく考えると非常に良くできた作品なのかもしれない。まあ可もなく不可もなく面白かったよん。メガテンネタは非常にネタにしやすいことがわかった。虚弱貧弱無知無能な人の子よ!

 さて、以下結構ぐだぐだなパロディ論。

 フラグを潰しまくり主人公と悪役に走りまくるニャル子が非常に印象的。従来のパロディ系ライトノベルにおいて主人公たちキャラの立ち位置もパロディされるのが基本。たとえば『生徒会の一存』は非常に露骨なハルヒのパロディであり作中でもそれをわざと言及する様なメタフィクション的展開を見せる。『けいおん!』のアニメにおける京アニのキャラの立ち位置も『らきすた』に見られる位置関係に対するセルフパロディという面が大きかったりする。このようにパロディを売りに出したライトノベルにおいては立ち位置までもパロディとして読者をわかりやすくそのメタフィクション的な構造に引き込むような仕組みになっている。
 それに対してパロディを売りに出していない作品において時にオタク的時事ネタを入れるものもある。「キラッ☆」に関してはその時期の作品に多数存在したような気がする。それは構わないんだけど、 どうしても時事ネタは鮮度が落ちる。そういう意味で時事ネタではない、玄人が好きそうなゲームネタ、クトゥルーネタを持ち出したのは上手いと思う。
 そもそもクトゥルーを元ネタとしている割にクトゥルーネタが満載ではない。多め、である。題材であってネタにする必要性はなかったのかもしれない。
 ほかの小ネタが多い上にわからんものが多い。メガテン、FF、マクロスF、果てにはD・V・Dまで。カオスといっても過言ではないパロディが連発するわけだが、そこにクトゥルーネタがさりげなく置いてあるような感じはしなかった。というかクトゥルーネタに関してだけ主人公かニャル子さんが突っ込みを入れる(まあサイクラなんちゃらとかは突っ込みなかったけど)。「ウボアー」とか「虚弱貧弱無知無能」とかは完全にスルー。
 基本的にこういう「わかる人が少ない」=「わかる人は非常に楽しい」ネタは危険。久米田康治が言うようにそういうのこそコアな人気は得ることができる。『さよなら絶望先生』より『かってに改蔵』の方がコア人気が高いという非常にわかりやすい例なわけですが、このようなネタは基本的に失敗しやすい。『ラノベ部』という作品がMF文庫で出されているわけですが、この作品の滑りっぷりはひどい。メタ的な話題を出す作品における作品内での他作品言及は、なあなあでやっているのであればいいのですが、アレはだめでした。単純に会わないだけなのかもしれませんが、一応考えてみると、登場人物たちが既存の萌えなどの概念を理解した上でその概念自体をネタにするという形式の作品なのに、概念自体を全くネタにせずその概念を理解した、という萌え、に終始してしまった点が問題なのでしょう。「萌えを理解する(俺らに近い)おにゃのこ萌え」ではなく「萌えを理解しそれをネタにするなんてこの作品面白萌え」でなくてはいけないと思うのです。前述の『生徒会の一存』に関しても同じく。構造だけメタっても面白くないのです。さらにはこちらに関しては全く萌え要素がなく登場人物みなうざいなので救いようがないです。1巻しか読んでないけど。
 そういう意味でのこの作品のはじけっぷりは素晴らしいと思います。基本的にネタがわからなくても「ここでネタがあるな」というのがわかるだけでなく、その使い方が意外なほどに自然。それというのも導入部分から思いっきり不自然な登場人物たちを配置したおかげなんだろうけど。
 とにかく主人公とヒロイン(?)の立ち位置が素晴らしい。読者の想像の斜め下を潜りぬけて斜め上から出てくる感じなななめ上展開。積極的にボケを狙うニャル子さんと極悪な突っ込み術を持つ主人公の掛け合いは不自然ながらも非常に自然な感じがあり何とも言いようがないけど結構面白い。それもこれもニャル子さんが予想のななめ上な動きをするからであって。主人公をお決まりパターンを使って遊ぼうとしてる感じだけどその行動はななめ上であるという一貫性を保っている。そこはすごいと思った。とにかくその斜め上一貫性により物語は安定感を持つことができている。
 その中で現れるネタのオンパレード。元ネタのないラブコメ要素もクトゥルー的なラブ(クラフト)コメ要素も非常に秀逸だが、前述のとおり元ネタのある小ネタの使い方が上手い。本当にうまい。ちょっとくどい気もするけど。
 けれど悪い意味でネタが万人受けする感じなのは気になる。とくにクトゥルーネタはもう少しマニアックにして「これの元ネタ気になる、クトゥルー読んでみよう!」と思わせるようなものにした方がいい気がする。今の文章では「ああ、ここネタか」で終わってしまって。ただネタがいっぱいあったラノベ、以上に評価は得られないと思う。まあここら辺のバランスが難しいんだろうけど、文章力はなかなかのものだと思うので、そこら辺は次で頑張ってほしいところではある。
 まとめると、まあパロディは作者の力量がよくわかる技法ニャル子さんの作者はそういうとこは上手いと思うってこと。


<曲矢さんのエア彼氏 木村くんのエア彼女 中村九郎

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)


 はてさて、作者と読者の位置関係というのは需要と供給で単純に図式化できるものではない、というのは至極当たり前のことですよね。基本的に作者というのは読者に物語を「提示」するのであって、それを「解釈」「評価」するのは読者なわけです。作者は如何に読者の「解釈」「評価」の幅を自由に動かすか、という技術を持っていなくてはならないと思うのです。例えば極端な例を出してしまえば「眼球譚」「家畜人ヤプー」「ドグラマグラ」などの変態的な作品群は基本的に作者は読者を自らとして自分が面白いと思うものを書いているわけです。それでもこれらが評価されるのは作者と近い変態性を持つ読者が半ば宗教じみた評価を下すからです。また、恩田陸だってそういう作者です。ラストで読者を突き放しわざと「解釈」の幅を広げる、というのは過大評価だけど、あの人の作品はいくつもの要素が上手く混ざり合って良作になるから、どこを見るかによって「評価」は自然と変わり得るわけですよ。
 さて、本題に入りましょう。中村九郎という作家は無駄に読みにくい文体=独特の文体が魅力的な作家だそうです。彼の作品はこの「曲矢さんのエア彼氏 木村くんのエア彼女」が初読なのですが、非常に独特の文体、というのはよくわかります。彼の作品は端的に言ってしまえば「無駄」です。悪い意味でも、いい意味でも。これを読んでいるとき、「シャングリラ」と同様の印象を受けました。「シャングリラ」は作者が行き当たりばったりに緻密に物語設定を作りまくるのでどこを読んでも重要そうなんだけど結局なにも重要なことはない、という文章になっています。それにはまってしまう幾人かの人がいます。
 同じように、この作品も、ハッキリ言ってほとんどの部分が無駄です。なのに読まなければいけないように感じてしまい、読んでしまう。無駄なのに飛ばし読みができない。これは確かにクセがあります。まあ飛ばし読みできないのは少しでも手を抜くとわけがわからなくなりそうなこの小説の題材自体にもあるんですが。それは後回しにしましょう。とにかく、無駄を押し付けられるのです。個人的には少々いただけない感じでした。あくまで個人的な趣向ですが。
 で、この小説の題材は「妄想」「電波」です。最近の作品でいえば「AURA」「電波女と青春男」などがあげられるそうです(伝聞なので確かではない)。いわゆる中二病的な妄想をまき散らすヒロインと振り回される主人公という構図なわけです。ただ、この作品ではその妄想を、たとえば妄想彼氏は「エア彼氏」、妄想彼女は「エア彼女」というように設定されており、「エア」を持つ人々「エアリアル」同士は他人の妄想=エアを見ることができる、という結構大胆な設定になっています。それゆえ傍観者であるべき主人公が最初から当事者になっており、これが物語を複雑にしていきます。読者の視点=主人公の視点ではないわけで、それゆえにこの説明困難な設定を使った小ネタがわけわからなくなります。しっかり読んでないと。その上中盤に「大会」なるものが開かれわけのわからない話が展開されもう意味不明です。しっかり読んでてもわかりません。さらに終盤なぜかバトル展開になり、そして結構うまい伏線の消化をします。ラストは結構うまいな、と思った。
 ということで中盤〜終盤にかけてが非常に説明不足のせいで面白くないため、評価は低くしましたのです。で、この作品で作者は読者を放置して先へ進みました。作者の頭の中では「エア」演技は最高にクールで面白いんでしょうが、わからない読者は置いてけぼり。それでもすこしでも理解ある読者がいればいいんですが、いるのでしょうか? つまり読者はこの題材自体を「評価」することができないのです。私もそうですが、物語の中でこの特異な題材を「どのように料理したか」が「評価」の対象となってしまいます。これは作者の意図に反しているのではないでしょうか。作者の意図と読者の感想の乖離というのはこのようにして起こるわけです。
 ではどうすればいいか、といわれても結構困るわけです。この作品はこの作品で一応完結しているわけで、その料理の仕方が下手であっても面白い、と一応言えるのです。そこら辺は、理論にとらわれない自由な感性、なんですよね結局。